時は五月上旬。大型連休の最中。私はリビングのソファの上でスマホを見ていた。私の前では、五つ下の弟であるダイスケがゲームをしている。 後ろでは母が掃除機をかけ、父が新聞を読んでいた。なんもない、穏やかで平和な光景だ。周りからスマホの画面に目を移す。それに映っているのはメッセージアプリの画面だ。ちなみに内容はグループチャット。 「そういえばさ、南北高校のシバタってやつ、めっちゃキモかった」  そう言ったのは、私のクラスメイトであるミク––一ノ瀬美紅だ。ミクは誰にでも気軽に話しかけることができる性格で、いつもクラスの中心にいる人気者だ。彼女の言葉に同じグループラインに登録している子達が次々と返事を送った。みんなが彼女に返答していく中で、私も何か返事を送ろうとしたが、指が震えて何も書き込めなかった。

私がミクと出会ったのは、高校に入ったばかりの四月だった。最初は人当たりの良い気持ちの良い子といった感じだったが、すぐに裏の顔を見せられた。自分の思い通りにならないと、周囲のせいにしたり、無視したりする。私は、彼女に掃除当番を押し付けられたりと、毎日嫌な思いをしていた。そんな彼女に言いたいことは山ほどあったが、言ったら嫌がらせをされるのが怖くて言えなかった。そんな私は、夜になると、「文句ノート」と名付けたノートにミクへの不満を書き込むのが日課になっていた。ノートに気持ちを書き出すと、心は軽くなったが、現実は変わらなかった。

数分後。ミクとみんなの会話は続いていた。彼女達の話題は、先程のシバタくんの話だった。彼は合コンに人数合わせで来ている上に、ミクに惚れていたそうだ。 「あんなブサイク、こちらから願い下げだよ」  あまりのストレートさにため息を出る。一体この状況にいつまで耐えればいいんだろう。そこまで思った時だった。 突然部屋の中が薄暗くなり、部屋の中が一瞬で静かになった。あまりにも急な出来事に、私の胸の鼓動は早くなっていた。周りを見ると、真っ暗になったテレビの前で、ダイスケがあたふたしていた。 「母ちゃん、ブレーカー落ちたよー」 ダイスケは、ゲームのコントローラーを持ったまま、焦った様子で言った。 「もう、あんたがゲームしすぎだから」 母はそう言うと、廊下へ出た。彼女は、玄関の横にあるブレーカーの前で、少し唸った後、台所に戻ってきた。 「あなた、ちょっと見てきてくれない」 母にそう言われた父はゆっくりと立ち上がった。 「うん、わかった」  父が廊下に出ようとしたその時、電気がついた。さらにテレビもつき、ゲームのご機嫌なBGMが鳴り響いた。私たちは、何が起きたのかわからず、互いに顔を見合わせた。結局答えは出ず、みんながそれぞれの持ち場に戻った時だった。 「うげえええ!」  前に座っていたダイスケが情けない声をあげた。 「どうした、ダイスケ」  父がそう声をかけると、彼は、震える声でこう言った。 「なんか、オンライン繋がらなくなったんだけど……」  見ると、テレビ画面にインターネットに接続してくださいというメッセージが表示されていた。 「ちょっと見せて」  父はテレビの下のキャビネットからゲーム機の説明書を取り出すと、それを見ながらゲーム機をいじり出した。 「うーん、難しいなあ」  父は何度もネットへの接続を試みた。しかし、何度やってもダメだった。 「えー、エンジニアの父ちゃんでもダメなのかよ」  ダイスケは、父の後でぴょんぴょん跳ねながら言った。 「仕方ないじゃない」  私は腕を組みながら言った。 「パパの専門は、ゲーム機じゃなくて会社のネットワークなんだから」 「えー」 ダイスケが唇をつんと尖らせている横で、私は、自分ち以外にも切れている人がいないか、調べるためにブラウザを開いた。とりあえず、ブックマークしている検索エンジンを開いてみる。すると、真っ白な画面が現れた。 エラーかな? そう思い、再読み込みしてみる。しかし今度は画面が真っ黒になった。しかも真ん中にはインターネットに接続されてませんという文字が踊っていた。 私は頭を抱えた。 「ん、姉ちゃんどうしたの?」 ダイスケは、心配そうに私の顔を見た。 「ダイスケ、あんただけじゃないよ」 「は?」 きょとんとしている弟に、私はこう言った。 「みんなネットに繋がってない」 「はあ?」 ダイスケが呆けた声をあげたその時だった。どこかから電話が鳴る音がした。誰だ誰だ、と私や母が顔を見合わせていると、父が右手をあげ、ズボンのポケットに入っていたスマホを取り出した。どうやら、電話だけは繋がるようだ。 「はい」 電話に出た父は、はあ、とかわかりました、と繰り返していくうちに、徐々にその表情は暗くなっていった。父は、電話を切るとダイニングテーブルにスマホを置いた。 「ごめん、仕事が入った」  父はそう言うと、ため息混じりに洗面所へ向かった。顔を洗って、髭を剃る。そして髪を整えれば、休日モードからいかにもできる感じの仕事モードに切り替わる。スーツに着替え、ネクタイを締めたら、準備万端だ。 「いってらっしゃい」 母と私に見送られ、父は家を出た。見送りを終えた私は自分の部屋に戻ろうとした。すると、玄関の奥からドタドタと忙しい足音が聞こえた後、台所から母が勢いよく出てきた。その右手にはお弁当用の小さな保冷バッグが握られている。 「忘れ物よ!」 母がそう言って玄関がを飛び出した時にはもう遅かった。父はもう家から離れていた。 「あー……」 肩をガックリ落とす母に、私はどうしたのと聞いた。 「パパにお弁当を渡しそびれたの」 母の声は沈んでいた。 「これは後で食べるしかないわね」 母がぽつりとそう言いかけたその時、わたしの頭にある名案が浮かんだ。 「私が届けるよ、それ」 私の言葉に、母は顔を上げた。 「いいの?」 私が頷くと、母は悪いわねえとバッグを手渡した。 「私に任せてよ」  そこまで言ったその時、私はしまった、と自分の発言を後悔した。どこにあるのかわからないのに、無謀にも自分が届けようとしているのだ。 ごめん、いいや。 咄嗟にそう言おうとしたが、母の嬉しそうな顔を見ると、腹を括るしかなかった。私はおそるおそる、母に聞く。 「そうだ、パパの会社の住所ってわかる?」  母は、しばらくうーん、と唸りながら視線を宙に彷徨わせた後、ぽん、と両手を叩いた。 「たしか、この前持ってきた会社からの書類が入った封筒に書いてあるはずだわ」  母は自分の部屋へ行き、数分もしないうちに戻ってきた。 「ほら、これよ」  母が手渡してきたのは、茶色の封筒だった。よく見ると、表側に<キンセン商事>と書いてあるのが見えた。 「これパパの会社だ」  キンセン商事は父の勤め先だ。父はそこのシステム管理部で、エンジニアとして勤めている。だからこそ、今回の件で急遽呼ばれたのだ。 「会社名の下をよく見てみて」  母に言われて会社名の下を見ると、確かにそこには小さな字で住所が書かれていた。 「これだけで行けるかなあ……」  私は思わず弱音を吐いた。 「パパがどこで降りるか知ってるでしょ」 「うん……」  小さかった頃にみんなで出かけた時、電車で移動した際に、父がここがパパの勤め先がある駅だよ、と教えてくれたことは今でも覚えている。 「たしか、二駅先の小桜駅だよね?」  私がそう言うと、母はそうよ、と言った。 「ちゃんと行けるかなあ」 私のさらなる弱音に、母は笑顔でこう返した。 「大丈夫よ」    数分後。用意の終わった私は、玄関を出た。服装は青と白のパーカーに葡萄茶色のハーフパンツ、そしてお気に入りの白に黄色のラインが入ったスニーカー。肩には緑色の斜めがけカバン。中には、自分のスマホと財布、そして、文句ノートとフリクションペン。必要最低限の荷物を持って外へ出ると、柔らかな五月の風が私の頬を撫でた。私の住むマンションの近所は静かで、トラブルやパニックみたいなのは幸い見られなかった。 静かな中をゆっくりと歩く。いつもと変わらない普通の光景。このまま家に帰るとインターネットが繋がらなかったのが夢の中の出来事のような気がした。

父の職場の最寄り駅は、出発した駅から二駅分行った先にあった。ホームに降りると、私と入れ違いでたくさんの人が電車に乗り込んだ。みんな不安そうな顔をしていた。スマホを不安そうに見つめる人、駅員に何が大声で質問する人、さまざまな人がいた。まるで、世界の終わりを目前にしたような、そんな感じだった。 まるで、映画みたいだ。 私は、不謹慎ながらもそう思ってしまった。    改札口を出た私は、かばんから封筒を取り出した。会社名の下に書かれた住所を再び確認してみる。  <小桜町3-4-6>  これだけの情報で、私は父のもとにたどり着けるんだろうか。  急に不安になった。しかし、いつまでもここで立ち止まっていたらどうにもならない。私は、意を決して一歩踏み出すことにした。とりあえず駅の周りから探してみる。駅の周りはオフィス街になっており、背の高いビルが乱立していた。どのビルも同じような感じで、どれが父の職場なのか分からなかった。結局何がなんだか分からないまま、気がつけば高層ビルの陰を抜け、明るい太陽が降り注ぐ通りへ出た。周りにはおしゃれなアパレルショップが乱立しており、カフェのテラス席ではおしゃれな人たちが集まり、明るい音楽が流れていた。その中を歩きながら、私の不安は強まっていた。。本当に着くのか。父のお弁当が悪くならないか。そんなことを考えていると、近くを若いサラリーマンが歩いていた。私はこれはチャンスだと思い、話しかけようとした。 「あ、あの」 一応声をかけてはみたが、声が小さかったせいか、相手はそのまま通り過ぎてしまった。私は、そのまま一人取り残されてしまった。 「どうしよう」 そんな言葉が口から出たその時だった。 「お困りかな」  どこかから声がした。見ると、目の前に奇怪な見た目をした人物が立っていた。首から下は黒っぽいTシャツにジーンズという飾り気のない格好だが、首から上がおかしかった。ほっそりとした首から上の部分を覆っていたのは、なんと茶色の紙袋だった。正面には周りを見るためなのか、穴が二つほど空いていた。 「ひぇっ」  一目見た私は思わず情けない声を上げた。  不審者だ、絶対に不審者だ。  そう思った私は、疲れていることも忘れ、すぐに立ち上がってその場から逃げようとした。その時、紙袋男が言った。 「待って、ひどいことはしないから」  私は立ち止まる。 「俺は、君を助けたいんだ」  私は顔を顰めた。これは絶対私が心を許したところでひどいことをする口実だ。そんな私の気持ちを見透かしたのか、彼はこう言った。 「嘘じゃないよ」  意外とごねる相手に、私は呆れて何も言えなかった。 「なら、ひどいことしない証拠見せてよ」  私がそう言うと、紙袋男は被っている紙袋を脱いだ。 「あ……」  紙袋の下にあったのは……普通どころか、逆に目立ちそうな顔だった。芸能人ばりに小さい顔に、吸い込まれそうな黒い瞳……すっと通った鼻筋に、輝くような銀色の髪。中でも一番目を惹いたのは、右目の下にあるほくろだった。普段はあんまり目立つことはないが、彼の場合は見事にセクシーさを引き立てていた。 こんなにかっこいい人って、本当にいるんだ。私の頬は紅潮し、心臓はバクバクと高鳴っていた。 「これで怪しくないってわかっただろ」  彼はそう言うと、また紙袋をかぶった。 「うん……」  私がそう言うと、彼は私の前に歩み寄った。 「俺はアキ。暁に生きると書いて、アキって読むんだ。君は?」 「え?」  しどろもどろになっているわたしを見て、アキと名乗った彼は笑いながら言った。 「君の名前を聞いてるんだよ」 「ああ……」  わたしは、呼吸を整えた後、あらためてこう名乗った。 「わたしは三島瀬那」 「セナちゃん、か」  アキはそう言うと、両手を頭の後ろで組んだ。 「じゃあ、セナちゃん」  優しい感じで呼ばれると、どこかくすぐったい。 「今から道案内してあげるよ」  私は、思わずポカンと口を開けた。初めて会ったはずなのに、自分の心を読まれたような気がしたから。 「なんでわかったの……何も言ってないのに」 「さっきからずっと見てたんだ、君がこの辺をぐるぐる回ってるの」  私は恥ずかしくなった。 「見てたの」  周りを落ち着きなさげに見回しながら、封筒片手に街中をうろうろしている様子は、実に滑稽に見えたと思う。顔を真っ赤にしているわたしを尻目に、アキはにこやかに続けた。 「で、明らかに迷ってそうだな、ってことで君を助けようとしたわけ」 「そうなの?」 「うん」  アキが首を縦に振ると、紙袋からチラリと見えている銀色の襟足が少しだけ見え隠れした。 「本当に道案内してくれるの?」 「もちろんさ」  どうやら、彼は本当に私を助けようとしているらしい。私はどうしたものかと考えを巡らせる。  私は、彼を信じていいのだろうか?  自分に問いかける。アキの瞳に映った自分がいいと思うよ、と答える。  なら、信じてみよう。  そう思った私は、唯一の手がかりである封筒を、アキの前に差し出した。  彼にすべてを賭けよう。そう思った私は、口を開いた。 「これに住所が書いてあるんだけど……」  アキは封筒を手に取ると、じっと見つめた。しばしの間、見つめた後、背負っていたリュックを地面の上に下ろした。ファスナーを開けると、チラリと中が見えた。リュックの中にはたくさん物が入っていて、パンパンに詰まっていた。 「うわぁ」  これには、さすがにドン引きした。アキは、リュックの中をごそごそと弄り始めた。彼は、リュックの中をゴソゴソと探した後、何かを取り出した。 「えぇ……」  アキが手にしているものを見て、私は目を見開いた。大きな手のひらの上にあったのは、今時珍しい紙の地図だった。相当使い込まれているのか、ぐしゃぐしゃのそれを、彼は地面の上に広げた。 「なんか紙の地図なんて久々に見たかも」  私がそう言うと、アキはしゃがみ込みがらこう返した。 「最近の子はスマホの地図ばっかだからね」 「アキさんは、スマホの地図は使わないの?」 「使わないね……」 「え?」 「っていうかスマホ自体使わない」  衝撃的だった。スマホが普及しているこの時代に、スマホを使わない人がまさかいるなんて。 「じゃあ、どうやって周りと連絡とってるの?」  私の問いに、アキは答えなかった。そのかわり、彼は封筒と地図を見比べながらある一点を指差した。 「ここだ」  彼は地図を持ってそのまま立ち上がると、すたすたと歩き始めた。 「待って」  わたしは慌ててその背中を追った。    休日ということもあってか、街中にはちらほらと人がいた。友達と楽しそうに歩くものや、恋人と寄り添いながら歩くもの。まさにいつも通りの休日の街、といった印象だが、この日は明らかに何かが違かった。  どこか慌ただしいような、終末感が漂うような、そんな感じだった、  どこかおかしい。そんな感覚に陥りながら、わたしはアキについて街を歩いていた。アキは、地図に目を落としながら、わたしの前をずっと歩いていた。 「ねえ」  わたしは歩きながら、灰色の背中に呼びかける。 「さっきの質問答えてないでしょ」 「質問?」  背を向けたまま、アキは答える。 「どんなんだっけ」 「周りと連絡する時はどうしてるのって」 「ああ……、それは」  彼がそこまで言った時だった。視界の中に妙なものが入った。わたしとアキは、思わず立ち止まった。 「こんなところに……なんで?」  わたし達の視線の先にあったのは、行列だった。よく見ると、行列は向こうまで続いていた。 「ちょっと見てみようか」  アキはそう言うと、ゆっくりと歩き出した。わたしもついていく。行列を外から見るのは新鮮だった。長い長い人の列をゆっくりと辿った先にあったのは、なんと携帯ショップだった。 「みんなネットができないから、なんとかしてほしくて並んでいるんだな」  行列を眺めながら、アキはそう言った。紙袋を被っているせいか、その表情は読み取れなかった。 「あなたも大変じゃないの」  私はわざと揶揄うように言った。 「おれはガラケーしか使わない」  アキは、ふんと鼻を鳴らした。 「ガラケーって、おじいちゃんみたいだね」 「おじいちゃん、か」 アキは笑いながらまた歩き出した。 「それも結構だ」

ひっそりとした道を抜けたわたし達は、オフィスビルが林立する広い道へ出た。アキはその中の一つの前で立ち止まり、指をさした。 「あ……」  彼が指し示したものを見た私は目を見開いた。そこにはたしかにキンセン商事と書いてあった。 「ね、大丈夫だったろ」  アキはそう言って私に目配せをした。    キンセン商事は、ビルの四階にあった。父が私の前に現れたのは、受付で名前を告げてから約五分後だった。 「いやぁ、まさか忘れるとはねぇ……」  そう笑いながらやってきた父は、汗だくになっていた。 「ん、大丈夫だよ」  わたしがお弁当を手渡すと、父は悪いねぇ、と汗を拭きながら笑った。 「それにしても、よくここがわかったねぇ」  父がそう言うと、私はちらりと後ろを見た。そこでは、アキが角から顔を出していた。その姿がおかしくて、わたしは思わずくすくすと笑ってしまった。 「どうした?」 父の心配そうな声に、私はくるりと振り向いた。 「なんでもない」    数分後。 「まったく……恥ずかしいよ」  階下に降りるエレベーターの中で、アキははずかしそうに声をあげた。 「だったら紙袋を脱げばいいじゃない」  私がそう言うと、彼は、鼻をふんと鳴らした。  そうこうするうちにエレベーターは一階に到着した。私達はエレベーターを降りると、外へ出た。 「いやー、それにしてもよかったあ」  私は大きく伸びをした。するとぐーっ、とお腹が鳴った。恥ずかしさのあまり、私は何も言えなかった。しばらくした後、アキが口を開いた。 「さては朝から何も食べてなかったね」 「うるさいなあ」  私は俯きながら言った。 「少しは食べたよ」 「ふふっ、そうか」  紙袋越しにくぐもったような笑い声が聞こえる。 「じゃ、お昼にしようか」    お昼を買った後、私たちは、近くの河原に向かった。柔らかな風に揺れる河川敷の上に、並んで座った。  私は、ビニール包装から今日の昼飯となるおにぎりを慎重に取り出した。こういう時ほど、無駄に緊張するのだ。  ビリ、ビリビリビリ。ぺりっ。ビニールの中から飛び出す、海苔の黒とご飯の白。海苔の香ばしい匂いが、鼻腔をくすぐり、食欲をそそる。わたしは汚さないように上半分を外へ出すと、そのまま派手にかぶりついた。 「……っ!」  口の中に広がるツナの旨みと海苔の香ばしさ、そしてマヨネーズの酸味が絶妙に絡み合い、味覚の爆発を感じた。  こんなに美味しかったなんて、すっかり忘れていた。  私が、モゴモゴしながらそう思ってると、アキがこう言った。 「美味しいだろ?こうして五感全てを使って食べるおにぎりは」  そうか。いつもはミク達と話したり、スマホを見ながら食事してたから、五感をあまり使っていなかったんだ。  私は、驚きと共に、これまでの自分がバカらしくなった。 「外で食べると本当に美味しいね」 「そうだな」  アキはそう言うと、サンドイッチを一口食べた。柔らかな風が、二人の髪を撫でるようにそよぎ、とても平和な時間を奏でているようだった。 「なんか、久しぶりだな」 「何が?」  アキの目が私の目をじっと見る。 「小さい頃ね、こうして家族とピクニックに来ていたの」 「そうなんだ」     数分後。食べ終わった私達は、河川敷に座ったまま、ボーッとしていた。  なんか、退屈だなあ。  私はそう思いながらスマホを取り出した。しかし、画面をつけようとしたところで、今はネットが使えないことを思い出し、慌てて鞄にしまおうとした。その瞬間、不注意にもカバンのファスナーを開けっぱなしにしていたため、中身をぶちまけてしまった。 「あ……」 私は慌てて体をかがめて床の上に落ちたものを拾おうとした。 スマホ、財布、ボールペン。そこまで拾ったところで、私は最後の一つを探していた。 「あれ?持ち歩いているノートがない!」 同じく地面に落ちたはずの文句ノートが見つからないのだ。一体どこに行ったのだろうと辺りを見回していると、後ろからアキが話しかけてきた。 「セナちゃん、もしかしてこれは君のかな?」 振り向いた私は、息が止まりそうになった。アキが文句ノートを持っていたからだ。 「もしかして……読んだ?」 私が恐る恐る聞くと、彼はうん、と答えた。 「君さ、ミクって子に不満があるみたいだね」 アキは、興味深そうにノートをめくった。彼の指がノートのページをなぞるたびに、私の心は恥ずかしい気持ちでいっぱいになった。 「だったら直接言えばいいのに」 アキがそう言ったその時だった。 「できないよ」 気づけば、そんな言葉を漏らしていた。アキは不思議そうに、私の顔を覗き込んだ。 「なんで?」 あまりにも透き通った瞳に、温かさが宿っていた。その瞳に魅入られた時、私の心の壁がガラガラと音を立てて崩れ落ちた。 「実は……」

私は、今までのこと、ミクへの想いを包み隠さずアキに明かした。アキはわたしの話を、黙って聞いてくれた。 「私はいつも弱虫だと思ってた」 私が机の上に突っ伏しながらそう言うと、アキは優しく頭を撫でた。 「充分強いよ」 「え?」 私は顔を上げた。   「君は痛みを知っている」 アキは私の手を握りしめた。 「人に傷つけられ、いいように使われる人の心の痛みをね」  アキの手は暖かった。彼の温もりが手のひらに伝わり、私の心臓は、ドキドキしていた。 「ミクは、ずっと人気者で、人間関係で辛い経験をしてないから、心の痛みを知らないんだ」 「だから、君は心の強さを知っている」 「本当?」 私は嬉しかった。ずっと自分は弱いと思っていたから。 「セナちゃん、話はすこしずれるけど……」 アキはさらに続けた。 「昔、少年犯罪に関する本にこんな事が書いてあったんだ、犯罪を防ぐためには空手を習わせ、ぶつかり合いを経験させろって」 彼はさらに顔を近づけ、私の目を見つめた。胸の鼓動がさらに早くなる。 「これがどういう意味かわかる?」 アキは私にささやくようにして言った。 「え、えっと……」 私は口をもごもごさせながら言った。 「人を傷つける痛みを理解させるため?」 私がそう言うと、アキは、満足そうに微笑み、頷いた。 「互いに受けることで痛みを理解できるんだ」 「なるほど」 アキは、私の目をじっと見た。いつにもなく真剣な眼差しだ。 「ミクは痛みを知らない。だから君が痛みを教えるんだ」 わたしが教える。 でも、本当にミクは理解してくれるのだろうか。彼女がただ純粋に理解してくれるとは思えない。その先に待ってる道は、無視だけだ。 「でも、無視されるのが怖い」 私がそう言うと、アキは私の心臓の辺りに右手を当てた。 「そんな事されても、君には俺がいるから大丈夫だよ」 そうだった。たとえ、ミクたちに無視されても。私は一人じゃない。私はアキの手を握った。 「ありがとう」

数分後。わたしたちは駅の改札にいた。 「今日は本当にありがとう」 わたしがそう言うと、アキは爽やかに笑って、いいんだよ、と笑った。 「じゃあ、おれはこれで」 そう言うと、彼は少しだけ後ろ髪を引かれるようにして、その場から立ち去ろうとした。 「待って」 私はアキの背中に声をかけた。彼は立ち止まってそのまま振り向いた。 「何だ?」 「最後にこれだけ聞かせて。あなたは一体何者なの?」 「俺かい?」 アキはニヤッと笑った。 「俺は君のもう一人の半分かな」 「え?」 私がそう言った時には彼は消えていた。少しの寂しさを感じながら、私は改札に向かった。改札に切符を通して入ると、すぐ近くにゴミ箱があった。私はかばんの中から文句ノートを取り出すと、それをゴミ箱の中に捨てた。ホームの中から見上げた空は赤く染まっていた。

それからというもの、いつまで経ってもインターネットは復旧しなかった。結局、原因も何もわからないまま、連休は終わりを告げた。   数日後。私はいつものように学校に向かった。あの日、アキと過ごした時間は夢のようだった。教室のドアを開けると、窓際の席で、女の子たちが四、五人くらい固まって何やら楽しげに話していた。その中で、中心のあたりにいた女の子と目が合った。彼女は、私を見るなり、ニヤッと笑った。その瞬間、心臓がバクバクと鳴り響き、全身が緊張した。私は、目を閉じ深呼吸をする。 大丈夫、私は一人じゃない。 心の中に、アキのあの言葉が反響する。 私は意を決して目を開けると、女の子に近づいた。そして、わたしは勇気を出して、相手の名前を呼ぶ。 「ミク」

(完)